Institut Lumière - CINEMATOGRAPHE
Camera, credits:Victorgrigas

2019.02.25

シネマトグラフの夢―映画の誕生と人間の身体・知覚
(表現工学科 土田 環)

映画の誕生日をご存知でしょうか?映画は、1895年12月28日、フランスの首都・パリで産声を上げました。フランスのリヨンで写真乾板を製造する会社を経営していたルイ・リュミエールとオーギュスト・リュミエールの兄弟は、時計の技術を応用して、連続写真が撮影でき、同時に映写もできる機械「シネマトグラフ」を開発しました。彼らはこの機械を使って撮影した映像をまず科学アカデミーで上映し、次いで、リヨンにあったフランス写真協会で上映した後、パリのキャプシーヌ大通りにあるグラン・カフェで上映しました。この上映会には大勢の人々がつめかけて評判となります。

しかし、それはリュミエール兄弟という天才の登場によって、突然に生み出されたというわけではありません。のちに「映画」と見做されるようになる、いわゆる「動く映像」を映し出す技術は、時をほぼ同じくして、19世紀末のヨーロッパやアメリカの幾人かの発明によって、それぞれ異なる方法で実現されました。例えば、イギリスにおけるルイ・エーメ・オーギュスト・ル=プランスの考案品(1888年頃)や、ドイツのスクラダノフスキー兄弟によるビオスコープの発明(1895年)を挙げることができるでしょう。こうした「動く映像」の装置は、実際に制作されなかった特許書だけのものを含めて数多くあったと言われています。「動く映像」への関心は、まるでそれまで抑圧されていた欲望が一挙に吐き出されたかのように、同時代的に湧き上がってきたのです。この要因として、ジョージ・イーストマンによるセルロイド・フィルムの販売や、フィルムを間欠的に動かす連動機構の開発をはじめとして、映像の再現を可能にする技術の組み合わせが可能になったことを指摘することもできるでしょう。あるいはまた、近代社会の誕生を支えたブルジョワ主義的な科学的合理主義の現われなど、世紀の転換期に生きた人々の心性をそこに読むことも可能です。じっさいには、そうした様々な要素が重なり合った産物として映画は誕生し、「動く映像」に対する人々の夢や欲望はそこに託されることになったのです。

19世紀後半に開発された数多くの映像を映し出す装置のなかで、リュミエール兄弟のシネマトグラフと並んで人々の注目を集めたのは、同時代のアメリカで、エドワード・マイブリッジらの研究を引き継いだトーマス・エジソンと助手のウィリアム・ディクソンが開発した「キネトスコープ」でした。エジソンが「動く映像」の装置の開発に向かうのは、蓄音機による耳の記録と同様に、目の記録も可能であるという発想によるものでした。エジソンの発明は、キネトグラフという撮影機とキネトスコープという映写機のひと組として1891年に特許を取得し、1893年のシカゴ万国博覧会にも出品されました。さらに1894年の4月、ラフ&ガモン商会がエジソンと契約して、ニューヨークのブロードウェイでキネトスコープを「魔法使いの最新の発明」と大々的に喧伝し売り出すことにも成功しています。キネトスコープ・パーラーと呼ばれた「映画館」には群衆が立ち並び、夜になっても長い列を作って、5台のキネトスコープの小さな覗き窓から「90秒の生きた動く写真」を見るために待ち続けたと言われています。

エジソンとディクソンのキネトスコープは、発明自体としてはリュミエール兄弟よりも早かったわけですが、一般的に、今日の映画の原型は、リュミエール兄弟のシネマトグラフだとされています。なぜ、先に発明をしたエジソンではなく、リュミエール兄弟に映画の「源泉」を求めるのか?その理由は、二つの装置の違いにあります。エジソンのキネトグラフとキネトスコープは大型で重量があり、持ち運びが不可能でした。映写に関しても、キネトスコープ・パーラーという複数の装置を並べた場所で行われましたが、このキネトスコープはスクリーン方式ではなく覗き穴方式によるもので、一台につき一人しか見ることができません。キネトスコープは、アメリカ国内をはじめロンドンやパリで興行に用いられましたが、スクリーンに上映して一度に多数の観客に見せることのできるシネマトグラフに比べると効率は悪かったため、リュミエール兄弟のシネマトグラフが発明されるとエジソンはすぐにヴァイタスコープというスクリーン方式の映写機に方向転換をすることになります。

リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」とエジソンの「キネトスコープ」の差異から、21世紀に生きる私たちはどのようなことを考えられるでしょうか?ひとつは、シネマトグラフが今日に至る映画の上映形式になったことで、観客を集め料金を徴収するという「興行」の概念が生まれたことです。映画は「芸術」なのか「商品」なのか(あるいはただの「娯楽」なのか)という議論は永遠に答えの出ない問いですが、誕生時において、映画はそのいずれでもあったのです。じっさいに、草創期の映画は、他の発明品とともに珍しいものとして展示されたり、見世物小屋やミュージック・ホールなどで余興として上映されていました。

また、スクリーンに映像を投影し、「不特定多数の観客が、同時に、ある一定の時間、同じ方向を見る」というシネマトグラフ=映画の鑑賞形態は、人間の知覚のあり方に大きな影響を与えたともいえるでしょう。ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンは、映画によって「個人的な知覚様式を集団知覚が取り込むことが可能になった」と述べています(「複製芸術時代の芸術作品」、1936)。映画が誕生した時、人々を惹きつけたのは、何よりも動く世界への「驚き」でした。正確に言えば、様々な事物の運動が、純粋に光学的なメカニズムを持つ機械によって肉眼にはけっして不可能なかたちで露わなものとなって眼前に現れたのです。それまでの鏡や水面の反映、あるいは写真で見るしかなかった自分の立ち居振る舞いが現実のように見ることができるようになり、そのイメージは自分だけではなく他人にも共有されることになりました。ここには、主観と客観という二分法を超えた人間のイメージに対する認識の新しさがあります。つまり、スクリーン上には、ただものが動いて見えたというだけではなく、人々がふだんは意識してみていなかったもの、見えなかったもの、あるいは見ようとさえしていなかった事物のすべてが存在しており、「現実」でありながらも現実とは異なる集団の「夢」として、人間にとって無意識の領域が開かれることになったのです。

Kinetoscope parlor in San francisco, 1894–95, source:
National Park Service



キャメラという機械によって得られる「映像」と私たちの身体的な知覚とのあいだには、埋めようもない質的な差異が存在しています。音声や色彩が加わり、立体視さえも可能となった、映像技術の進歩した今日においても、この事実が変わることはないでしょう。「技術」「商品」「芸術」といったカテゴリーにたやすく還元するばかりでなく、映画という表現を人間の認識や知覚のあり方と結びつけてとらえなおす必要があります。シネマトグラフの生み出す原初的なイメージは、私たちにそのことを伝えるのです。