笑いの数理
基幹理工学部 表現工学科 郡司ペギオ幸夫

笑いについての論考というのは案外少なく、今でも100年前の哲学者、ベルグソンの著作が重要な文献になっています。そこでは、繰り返すだけで笑いを起こす「反復」や、地位や役割の「反転」、一つの言葉や人物が両義的な意味を持つことに起因する「交錯」が、笑いを起こす3つのメカニズムとして挙げられています。しかし、これらの議論は、もはや古いギャグやダジャレの類だけを捉えているように思えます。もちろん現代の笑いにも通じるものはありますが、わかりやすい対立軸、例えば、ベルグソンの引用する主人と使用人のような対立軸はもはや明瞭ではなく、対立軸の浮かび上がること自体が、現代の笑いを形作っているように思えます。

研究室の学部生、神さんは、漫才が大好きでこれをなんとか卒論にできないかと相談してきました。日本には「カワイイ」や「マンザイ」の笑いなど、文化に独特のものがあり、それらはグロテスクさや不安、恐怖と紙一重です。それは創造のコアであるとも考えていましたので、すぐさま研究として立ち上げることにしました。桂枝雀は、笑いとは緊張の緩和であると言い、千原ジュニアは、ツッコミとは話を「フチドル」ことだと言っています。この二つは私の頭の中で繋がるものがありました。そこで神くんには、YouTubeに上がっている漫才を徹底的にみて文字に起こしてもらい、これらを調べることにしました。その結果、「フチドル」ということの意味が数理構造として可視化されると共に、緊張の緩和とも関係付けられることになりました。

典型的な事例は、フットボールアワーの次のようなネタに認められます。ボケである岩尾が、次のように話します。「そこを右に曲がるやろ、そうすると横断歩道がある」、「で、まっすぐ行って信号がある」、…、「そのまま行くと、S字クランクや」。と、ここでツッコミである後藤が叫びます。「それ、教習所やろ」。岩尾は、次々と新たな情報を加えていくだけですが、それは最後にはS字クランクとなり、街中の話かと思って聞いていた聴衆は、梯子をはずされたような不安に陥り緊張してしまう。それを後藤が、全て教習所の話だと説明しますから、聴衆はそれを聞いて緊張が解け、一気に爆笑が生じるわけです。バラバラな情報であった岩尾の話に意味を与えた「教習所」こそ、フチドリです。フチドリとは、図と地という対立軸を浮かび上がらせて意味を与え、緊張を緩和することと考えられます。

私たちは緊張の緩和を、「言葉の生起確率が、フチドリによって急に増大する」という形で、説明できると思いました。そこで、漫才における言葉の連なりを、発話とその意味に便宜上分けた後、両者の間の対称性を仮定し、これを二項関係(関係がある・ない)で表しました。ここから、言葉の可能な組み合わせが、漫才の流れ・分脈の中でどのように制限しているか、代数構造の一つである束(演算について閉じた順序集合)で表して解析しました。その結果、淡々と付加される情報の系列は、複数の対角関係(対角成分のみが関係を有する)の形をとり、フチドリは、対角関係の外側全てに関係を認め、文字通り対角関係を「縁取り」していることが分かりました。これを束で表すと、図のように対角関係はブール代数と呼ばれる集合論に対応する論理、フチドリは、それを貼り合わせる要素となることが分かりました。それは、量子論理と関係の深いオーソモジュラー束を部分とする形式で、様々な漫才のネタを解析すると、そのほとんどがこの形になっていることが分かりました。束上で主観的確率を定義すると、フチドリによって確率が上昇し、緊張の緩和を説明できることもわかりました。笑いは量子情報によって説明できるという議論が、一部でなされるようになりましたが、それを一部に含む、より普遍的な構造が笑いにはあるのかもしれません。